本を読んでいてたまに思うのは、「この本をこのタイミングで読んじゃうとはな……」っていう運命力みたいなものなんですが、今回それをひしひしと感じてます。
マスコミやインターネットや警察組織のような、個人の力ではどうしようもない権力を持った相手に「こいつは国の敵だ」と名指しされている誰かを見た時、その人に抱いた違う印象を守ろうと思えば、その人との唯一無二の思い出しかない。
凄くありふれた言い方をすれば、「一次ソースってめっちゃ大事だけど、同時に怖いな」ってことなんだろうなぁー……と。
でも、この世の中、一次ソースがどれだけあるんだか。
私達が「これは一次ソースだ」って思ってることでさえ、実は違うかも知れない。
現実社会じゃ、物語みたいに分かりやすく「これが一次ソースですよぉー」と転がっていない。
この本でいうと、インターネットやマスコミや警察は終始「鏑木慶一は凶悪な死刑囚である」と言い続けて、国民の大半がそれを信じている。もしくはどうでもいい。
そんな中で逃亡する鏑木と関わった人達が徐々に、「あいつ、実はいい奴なのでは?」「あいつ、もしかして人を殺してないんじゃ……?」となっていくんだけど、これって世間に充満している憶測や思い込み(もしくは「あの人がああ言ってるんだから間違いない」という思考の放棄)ではなく、自分の中にある唯一無二の鏑木との思い出(一次ソース)から、結論を導きだしたってことなんだよね……。
そして死んだ鏑木の名誉のために動き出して、その結果が実を結んだところで話が終わるわけで、物悲しいけど心が少し軽くなるような終わり方になってる。
読みやすい社会派ミステリーという感じ。
ページ数は多め(480ページぐらい)だけど、各章ごとに語り手が変わり視点がかわり、鏑木も変装したりするので、読んでいて飽きない。
正体っていうタイトルも、「警察やマスコミが作り上げた“死刑囚鏑木慶一”ではなく、行く先々で出会った人達の記憶に残る“彼”こそが“鏑木慶一の正体”である」って意味合いなのかなと思う。
物語だからね、これでいいよね。
世間に溢れかえった有象無象から、「私は鏑木を信じる」と決めて動き出して、結果それが正しいというのは、綺麗だし。
この物語は「物語」で、読み終われば特に警察の怠慢や保身が描かれているから(というかアルツハイマーで記憶力が怪しい人を承認にする時点で大丈夫か警察?って思うし、その証言を採用する裁判所もどうかと思うんだけど。フィクションだとしても強引すぎないか?)、自分達の鏑木との思い出を信じた側が正しかったことになる。
でも現実だったら、「権力側が言ってることには裏がある」「これは××の陰謀だ」って言い出したら、「私達は真実の気づいているんだ」っていう陰謀論者に片足を突っ込みかねないんだよなぁ。
物語みたいに分かりやすくマスコミや警察が間違っているとはならないし、分かりやすい“批判すべき対象”としてマスコミや警察を見るのなら、それはどこかで「あいつらは間違ったことをしている」っていう先入観があるからだし。
というかちょうどこの本を読んでるときに、現実社会のほうでそんな感じのものをいくつか見たので、「なんというか……、こわいな」と思った。
多分、読むタイミングが違えば、この本は自分の冤罪を晴らすためにひとりでずっと戦った鏑木と、彼の死後に彼との思い出を信じて彼のえん罪のために奔走する人々の、小さな絆と縁の話だったと思う。
きっと特に疑問も持たず、普通に楽しめたはず。
でも読むタイミングが悪かった(もしくはよかったのかな)んだと思う。
読み終わってから、「自分の中の一次ソースを信じて行動するのは大事だけど、現実は小説みたいに綺麗な物語になるわけじゃないよな……」って気持ちになってしまっているので、本って読むタイミングが大事だよな……。
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