わーい、長野まゆみさんの本だー!!!
と、ワクワクしながら読んでました。
うん。この絶妙に不親切な感じ、読み込んでも真相にたどり着けなくて、真相にようやくたどり着いたと思ったら、あっさりひっくり返される感じ……、長野まゆみさんだわ……。
私は学生時代を長野まゆみさんを読みながら育ってるので、なんとなく漠然と「長野まゆみさんの本っていいよね……。なんか、すっごくいいよね……」と語彙力少なめに思っている人間なのですが、でもやっぱり、なんかもうこの空気感が好き!! って作家さんなんですよ。
この空気が好き。
作品に積もった気配が好き。
この感覚は長野まゆみさんだからこそ、味わえるもの。
他の作家さんでこういう話を書ける人いるか……? なんというか、謎を謎のままにして、それが私の中で不愉快に繋がらず、明確な答え合わせがないまま終わるけれど、それもまた面白いからOKだと思える作家さん、いるか??
うん。いないな。
学生時代に出会った特別感も相まって、私の中で長野まゆみさんが特別な待遇を受けている可能性も否定できないんですが、この“他の作家さんだと「クソ腹立つ!!」で片付けてしまいそうな展開も、長野まゆみさんだったら許しちゃう現象”に名前をつけたい。
読み進めていくうちになんとなく、「つまり……、こういうことでは?」と推測を立てるし、ある程度答え合わせも出来るので、「なるほどなるほど……??」となっていくんだけど、それらの謎を堪能して読み終える寸前の最後のページで最大級の謎が叩きつけられる。
え。計一って……、誰よ?!
今まで劇中劇のごとく“この本の中に登場する本の中の登場人物”として描かれていたはずの計一が、突然、本の中の現実に姿を見せる。
最後のページで。
その瞬間これまで考えていた推理が音を立てて崩れ去り、「え? 計一が実在する? どういうこと? 計一は物語の人物なんだよね? なんで実在するの?? え、どういうこと??」と、混乱の極地に追いやられる。
本の中では清三五は“まわりの人間の名前を借りて作品を作る”と書いてるから、物語の登場人物である計一も現実に同じ名前の人物がいてもおかしくはないんだけど、今の今まで話にでて来なかったのに、最後の最後で登場するこの感覚!
どこまでが虚構で、どこまでが現実なのか。
ぶっちゃけこの本に関しては、虚構と現実の境界を考えることはあんまり意味ないよな、と思う。
話を掴みやすくなるわけでもないし。
虚構と現実がぐちゃぐちゃになっているのが、この本のエッセンスみたいなものなので、このままこのぐちゃぐちゃを楽しんでもいいし、丁寧により分けてもいいし……、好きな方を選んでねっていう空気を感じる。
なので絶対に線引きしなくちゃいけないわけではないから、明確な境界と現実との区別がない。
この感じを「不親切」と考えるか、「長野まゆみさんらしい」と考えるかは人それぞれだろうけど、私は、「あーーー。長野まゆみさんらしいなぁー……」と思うので、結構大好物だったりする。
というわけで、「兄と弟、あるいは書物と燃える石/長野まゆみ」の感想でした。
学生時代に読みふけっていた長野まゆみさんの本を改めて読み直そうとしているわけですが、いやぁー……面白いわぁ……。
それでは、次の一冊でまた!


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