「ゴジラ 星を喰う者」を見てきました。
正直ゴジラ映画と考えると、主体がゴジラではなかったので物足りない映画なんじゃないかなと思います。怪獣映画と思うにしても、ゴジラとギドラの戦いは少な目だし、全体的に人と人との話でした。
ゴジラだけどゴジラ映画じゃないっていうのが、ゴジラが出てる映画で言っていい台詞じゃないような気もするけど。ゴジラという大きくて絶望的な存在を前にして、無力な人間がいかにあがいたのかっていう話だったのかなと思います。
ここから先はネタバレです。
結局エクシフって?
究極の宗教家だったってことなんですよね。
宗教の先をひたすら考えて考え抜いた結果「永遠なんてない。結局最後は滅ぶんだ」みたいな結論に達して、だったら滅ぶにも絶対的な神と一緒になって滅びたいとなって自分達の星を滅ぼして、そしてその最終的に滅びへと進むのを正しい道と信じて他の知的生命体にもその道を解くために地球に来て、地球に人類が生まれるよりも前から人類を観察してて、ゴジラが登場した時点で人類と接触を図ったけど、まだ自分達の神を呼ぶには早いから宇宙へ逃げて、そして再び地球へ戻ってきてゴジラと戦って、そうして自分達の神(ギドラ)を呼んだんですよね……??
そうなると、ゴジラの第一部の最初に出てくる移住可能な惑星だって最初から移住なんて不可能だって分かっていた可能性があるし(そもそも宇宙に脆弱な人類を引っ張り出して絶望させるため。もっと言えばハルオという人間にゴジラへの憎悪を募らせるため)、ハルオの育ての親でもあるおじいちゃんが死んだのだって「死は救い」の延長線だし――……、え、ちょっとまってエクシフ怖いんですけど。
全部こいつらの手の中で踊らされてたって考えても違和感ないんですが……?
エクシフのお偉いさんに尊ばれていたメトフィレスがいつからハルオに目を付けていたかは不明ですけど(ハルオが宇宙船乗船に選ばれた時からだとすると相当前から)、ハルオがゴジラを憎むようにずっと誘導してたんだろうなぁ。
ハルオも終盤でそのことには気づいたと思うけど、それでもメトフィレスを殺せずに目だけを潰すっていう行動をとり、メトフィレスの死に対して泣いた(と思うんですけど)のは、洗脳っぽくゴジラを憎むように誘導されていても、メトフィレスが友人だったからかな。
そう考えるとハルオが最後にナノメタルに侵されたユウコと一緒にゴジラに特攻して死んだのは、今の地球には不相応すぎる文明が唐突に生まれる事への危惧もあるけど、自分の中に確実に息づいているメトフィレスの意志と尽きる事のないゴジラへの憎しみをこの世界から消し去るためだったんでしょうか。
考えれば考えるほど、ゴジラという存在よりも複雑すぎる人間関係です。これまたゴジラとはあまり関係ない結論に至りそうなんですけど。
怪獣映画ではなくて人生映画
今回のエクシフの一件も含めて、結局このアニゴジって怪獣映画ではなかったんだなと思います。
ページの冒頭で書いていた通り、サカキハルオという人間を通して様々な種族の生き様やすれ違いが描かれているのを見ると、どっちかというと人生映画っぽい要素のほうが強いと思います。
アニゴジという特撮ではない形でのゴジラなので「特撮じゃできないようなゴジラ映画が見れる!!」と思ってたんですけど……、そういう意味だと怪獣映画ではなく、人と人との関わりや繋がりみたいなものにシフトチェンジした今回の映画は物足りないんですけど。
でもサカキハルオというゴジラを憎み続けた人間の結末として考えると、「ああ。そっかぁ」と納得のいく映画だった気もします。
でも今回の星を喰う者は宗教的な話も入ってくるから、正直一回見に行っただけだとまったく理解できてない気がしてならないんですよね……。
小説版でそのあたりの「映像だと分からない部分」を補完してくれると信じてます。