読んでいていたたまれない、という感覚を久し振りに味わった。
久しぶりに途中で手が止まり、「あ。ちょっとこの本は読みたくないな」と思ってしまう作品だった。
この「読みたくない」っていうのは悪感情ではなくて、いたたまれなさとしんどさが混じって苦しいという意味で、片桐孝朔の存在がひしひしと私の心の中に入り込んできたから。
この人、しんどい。
悪い意味でしんどい。
片桐孝朔の自己顕示欲と周囲との摩擦が、見ていて痛々しい。
誰かに尊敬されたい。
誰かに必要とされたい。
そのためには自分はちっぽけな人間(無自覚)だから、周りの人間が自分よりも格下になってほしい。
お前ら全員俺より格下、俺を尊敬していればいいんだよ。
俺を敬ってろよ。
そんな感情が、読み進めていくうちにどんどん明らかになっていくのが、嫌だ。
でも同情できる範疇を越えて他人に危害を加えた彼を擁護することはできないし、痛々しい反面他人を見下してきた(そして見下してきた人間達よりも自分は下なのだと思い知ったときの凶行)部分の生々しさもあって、片桐孝朔を物語の一人物として見ることができなかった。
こいつ、絶対に、現実世界にいるわ。
絶対にいる。
で。その感覚を私に突きつけてくる話の構成がすごい。
片桐孝朔の夢に本の約半分のページを割いてるんだぜ??
本の途中で「現実の登場人物」の項目がでてきた時の、私の感想を述べよ。
え、まじかーーーー。でしたよ。
いわば、片桐孝朔の自己顕示欲と願望ダダ漏れの見るに堪えない夢(実際に現実パートになった時の片桐孝朔の悲惨さを見ると、夢での片桐孝朔の格好よさがいかに薄っぺらい張りぼてだったかが分かる)を中盤まで書いて、そこから話がひっくり返って現実が描かれる。
文字通り、極楽のような夢から一転、悪夢のような現実へ。
それまでいかに素晴らしいかを描写されてきた片桐孝朔のメッキが一気に剥がされて、いかに恥ずかしいやつであるかを描写される。
夢での有能さはまるでなくてただただ他人とコミュニケーションがとれない(一方的に相手にまくし立ててマウントを取ろうとする)様子を見てると、心がぎゅっとなる。
でも、これ、笑えない。
夢(理想)と現実の乖離は誰にだってある。私にだってあるよ。
こいつほどじゃないけど、こいつが抱えているものを、多分私も抱えている。
それを明確に見せつけられる事ってあまりなくて、こう、文章として出されたときの「あ。この人、恥ずかしいな」って感覚は私の中の共感性羞恥なのだと思う。
とにかく片桐孝朔がしんどくて中盤まで読むのがつらかった。
だから彼が死んだ後は正直ほっとした。
彼のいたたまれなさと恥ずかしさにずっと付き合う必要がないんだって分かってほっとしたぐらい、私は彼が苦手だった。
なので片桐が死んだ後の中盤から終わりにかけては、さくさく読めたんだけど、そこからの展開もすごく怖かった。
この話のテーマは「夢」。
では、小説で夢と現実の話を、一人称で書くとどうなるのか? それをまざまざと見せつけられる。
とにかく怖い。
夢と現実の区別がつかない。
夢は危険だと分かっているのに、読んでいる側(そして読者に状況を伝える役割を担う一人称の語り手にとっても)には、それが夢なのか現実なのか分からない。
なので安心できるタイミングが分からない。
それが怖い。
夢から覚めたと思ったら実はまだ夢の中だったっていう、私達の現実世界でもたまに起こる現象が、“夢の中で殺されるかもしれない”というこのホラー小説の中でも起こる恐怖。
あ。助かったんだと思ったらそれが夢で現実ではまだ危機が迫っていて、これは夢だよね?! と思ったことが現実だったりする。
その地続きの曖昧さ(グラデーションの両端の色は全く違うのに、ゆっくりと色が変わっていくから全部を見るとどこから違うのか分からないような)感じが、途方もない恐怖(本当に助かったのか分からない)に繋がる。
この本は全部を読み切ってネタバレを全部把握した上で再読しても面白そう。
むしろ再読すべき?? 片桐孝朔のことも再読ならある程度耐性がついて落ち着いて読めるかな。
というわけで、「ばくうどの悪夢/澤村伊智」の感想でした。
途中まではしんどくて、何度か読むのをやめようかなと思ったんですが、最後まで読めてよかったです。
それでは、次の一冊でまた!
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